「沖縄の不発弾と東京の不発弾。沖縄が特別ではない?」を書いた後、さらに不発弾のことを調べてみた。
そのなかで、内閣府沖縄総合事務局(通称、総合事務局)が「沖縄不発弾等事前調査データベースシステム」というものを提供しているのを見つけた。
実際に、沖縄における不発弾発見場所をプロットした地図を見る前に、日本列島の地図で沖縄の位置と大きさをを見てほしい。
赤い丸で囲んだところが沖縄本島である。
沖縄県の面積は全国の面積の0.6%でしかない。
全国で発見された不発弾の73%が沖縄で見つかっている(73%は平成19年と20年の実績であるが、そのまま使っても全期間での比率と大きな違いはないはず)。
恐ろしい密度で不発弾が埋まっていることが想像できる。
沖縄県内でも発見された不発弾の密度は一様ではない。
米軍と日本軍が地上でぶつかり激戦となった沖縄本島に集中することになる。
総合事務局が出した「沖縄県における不発弾対策の取り組み」によると、沖縄県で発見された不発弾の91%が沖縄本島の中南部で見つかっている。北部と伊江島が2%なので、沖縄本島で92%という感じだろうが、90%発見されたとしておいていいだろう。
沖縄本島は沖縄県の面積の53%なので、全国の面積の0.3%程度。
この0.3%の島に67%(73%の90%)の不発弾が見つかっている。
冒頭で紹介した「沖縄不発弾等事前調査データベースシステム」を使って、沖縄本島全体が見えるようにして、発見された不発弾の位置をプロットさせるとこうなる。
中南部にびっしりと赤くプロットされ、ほとんど塗りつぶされている。
さらに拡大して、中南部だけにしてみる。
中部に隙間が見える。上で紹介した不発弾対策の取り組みによると、首里・浦添地区(58%)、小禄・島尻地区(27%)と浦添から南で沖縄県内の85%を占めるそうなので、さらに拡大して浦添以南を中心にしてみる。
上の方に宜野湾市と書かれている(海兵隊の普天間飛行場でプロットされてない)が、そこからちょっと下から浦添市。
南部の方に隙間が見える。
首里・浦添地区で58%というだけあって、首里・浦添地区はびっしりだ。
首里には日本軍の司令部があり、中部の海岸から上陸したアメリカ軍が南下し、宜野湾、浦添の陣地あたりから激戦になったらしい。
南下した米軍は、4月6日ころから首里(しゅり)の軍司令部を取り囲むように構築された宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらそえ)一帯の守備軍陣地の前で激しい抵抗にあった。約40日以上に及ぶ一進一退の攻防戦の後に中部戦線を突破した。その後、米軍は首里城下にある軍司令部の防衛線に達し、5月11日から総攻撃を開始した。守備軍は安里のシュガーローフや運玉森などで激しく抗戦したが、5月下旬、急きょ南部へ撤退、首里は完全に占領された。
「沖縄の不発弾と東京の不発弾。沖縄が特別ではない?」では沖縄県の不発弾が異様に多いことを書いたが、沖縄県内でも多いところ少ないところがあり、首里・浦添あたりが特に多いことがわかった。
これを書くまでの印象は、特に南部多いよね、だったが「首里浦添が特に多く、南部も多いね」に改めないといけない。
僕の母は東風平で生まれ育ち、沖縄戦に巻き込まれた。
祖父(母の父)は防衛隊(?)にとられ、祖母(母の母)は子や孫を連れて南部を逃げ回った。
祖父は防衛隊で戦死したが、それ以外の家族は沖縄戦を生き延びた。
不発弾の発見状況をみると、一家全滅もあったというのに、母一家は祖父一人しか失わなかったのは幸運だったなと思う。
資料
・沖縄不発弾等事前調査データベースシステム(内閣府沖縄総合事務局)
・国土地理院地図
・平成十九年及び平成二十年の不発弾等の発見・届出(件数、個数)
・沖縄県における不発弾対策の取り組み(内閣府沖縄総合事務局)
・本島中部・首里の戦闘(沖縄県平和祈念資料館)